河岸への道
さてさて、予告したとおり、船着場のことが気になって、ちょいと早起きをして歩きに行きました。
さっそく、看板を見つけてしまいました。普段、車でよく通る道の片隅にありました。歩かないと気がつかないものです・・・。
で、看板には「鰍沢横丁」というタイトルなのです。
鰍沢って、韮崎じゃないよな~?、と思いながら看板を読むと、「?」が「!」に変わりました!なるほどです!
鰍沢横丁
ここから「みのぶ道」駿信往還ともいい、峡北地方や諏訪・佐久地方の江戸城納めの年貢米を、馬背に積んで、鰍沢河岸(幕末には船山河岸)まで通行の道筋である。
ために沿道には、駄菓子屋・馬方茶屋など軒を並べてにぎわったが、明治二十六年国鉄中央線開通して、荷物輸送経路も一変し、往時の活況は消え失せた。しかし町民には忘れじの横丁である。
と読み終えて、横丁のあった通りを眺めると、なかなか想像をたくましくしないと往時の活況を思い浮かべることはできないかな~。でも、どこかにその痕跡がないかな~と歩き始めようと、時計を見ると・・・。出勤時間。。。ということで、横丁の入口で本日は断念しました。
よく通る道ですが、まだまだ新しい発見がありそうです。そして、もっと深く知ってみたいな~と、そんな風に感じることのできる私の住むまち「韮崎」は素敵だと思う。←本年も参加してみようと思います。
車の奥に一体どんな風景があるのか楽しみです♪ちあなみに、奥に見える山はobeの好きな山の一つ苗敷山です!
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コメント
なかなか、趣のある横丁界隈といった感じですね。往時の面影がどことなく残っているようななんともいえない風情がいいですね。韮崎は海への玄関口だったんですね。こういうの是非大切にしてもらいたいですね。
投稿: yottekurenke | 2009年1月28日 (水) 00時47分
ここはからの苗敷山は、○尾団地からでしょうか?
この界隈まで栄えていたとなると、昔はもっと釜無川の川幅も水量もあったと想像できますね。
それと、釜無川と御勅使川のデルタ地帯なので水害も深刻だったのでしょうね。
南湖方面の家には、昔は舟が天井から吊ってあると聞いた事があります。
それにしても、朝の取材散歩お疲れ様でした。
投稿: スーパークラフト! | 2009年1月28日 (水) 20時19分
こんばんは、oberisukuさん。
駿信往還。。。駿河と信濃を結ぶ道ということなんですよね。。。
みのぶ道ということは、身延山を経由して駿河に抜けるんでしょうか。
もしかして、先日 玄爺がドライブした身延の手前から本栖湖を抜けて
走った道につながるのかな~。などとつたない空想をしちゃいます。
写真を見る限りでは賑わっていたときを想像するのは難しいですけど
なんだかワクワクしますね ^o^
投稿: 玄爺 | 2009年1月31日 (土) 19時00分
★yottekurenkeさんへ
横丁の趣があるのは、家の玄関が道に向かってあるからでしょうかね?北風の強いこの地域、北向きに玄関を向けることは少ないはずですものね。武田八幡宮の参道は北向きの玄関じゃないから、参道に背を向けたお家のつくりが多いですものね!
★スーパークラフトさんへ
釜無川の水量が少なくなったのも、河岸がなくなった理由の一つのようですよ。いろんな要因が重なったようですね。
釜無、御勅使、塩川、何れも水害をもたらしてきたから、先人たちも堤防を築くなどして工夫をしていたのでしょうね。
★玄爺さんへ
みのぶ道は現在の国道52号線とほぼ同じようですよ。こちらのH・Pが参考になるかと思います⇒http://www3.town.minobu.lg.jp/lib/shiryou/michi/index.html
本栖湖を抜ける道は、本栖道と呼ばれていて、つながっていますよ!
投稿: oberisuku | 2009年2月 1日 (日) 08時32分